SPORTS FIELD

さまざまなジャンルのスポーツニュースを取り上げた 5ちゃんねるまとめブログです。

現役引退

1: 名無しさん@恐縮です 2022/10/18(火) 13:40:52.04 ID:dNvo1LF59
 横浜FCは18日、元日本代表MF中村俊輔(44)が今季限りで現役引退することを発表した。俊輔は既にB級コーチライセンスを取得済み。第2の人生は、指導者としてスタートする。

【写真】2019年11月24日、J1昇格を決め、笑顔を見せる横浜FCのカズと中村

 クラブを通じて「今シーズンをもち現役から退く決断をしました。幼稚園のときにサッカーボールを蹴り始めてから、40年もの月日が経ちました。はじめは、楽しいという思いだけで始めたサッカー。そのサッカーが仕事となり、プロサッカー選手として26年間も過ごすことができました。長いサッカー人生の中で、幾度となく苦悩や挫折がありましたが、いつも誰かが自分のことを支えてくれ、背中を押してくれました。一緒に戦ってくれたチームメート、指導をしてくださった監督・コーチ、ケガの治療やケアをしてくれるドクター・トレーナー、クラブに携わっていただいた方々、そして、いつも熱い応援をしてくださるファン、サポーター、すべての皆様に感謝申し上げます。本当に多くの支えがあったからこそ、これまでサッカー選手として闘い続けることができました。26年間多くのご声援、ご協力をいただき誠にありがとうございました」とコメントした。

 19年7月から横浜FCの一員となった。キャリア初のJ2で同年は、10試合1得点。元日本代表FWカズ(55、三浦知良)らとJ1昇格を経験し、翌年の20年は10試合無得点、昨季の21年は12試合で無得点だった。

 J2降格した今季は、ここまで5試合に出場。無得点ながら、3月13日のリーグ戦第4節・水戸ホーリーホック戦では「27秒後アシスト」で話題を呼んだ。2-2の後半38分から途中出場。ファーストプレーとなった左CKのキッカーを務めると、桐光学園の後輩・FW小川航基(25)のドンピシャのヘディングをお膳立てした。

 プロのキャリアをスタートした横浜M(現横浜)時代には、22歳で史上最年少MVPを獲得。セルティックでは、06-07シーズンの欧州チャンピオンズリーグ(CL)で、名門マンチェスター・ユナイテッド相手に、鮮やかなFKを2本も決めた。名手の元オランダ代表ファン・デル・サールからネットを揺らした。数多くの感動をその左足から、生み出した希代のレフティー。惜しまれながらも、日本のファンタジスタがユニホームを脱ぐ。


 ◆中村俊輔(なかむら・しゅんすけ)1978年(昭53)6月24日、神奈川県横浜市生まれ。横浜ジュニアユース、桐光学園を経て97年に横浜M(現横浜)に入団。02年にセリエAのレッジーナに移籍。05年からはスコットランド1部リーグのセルティックでプレー。その後、スペイン1部リーグのエスパニョールを経て、10年に横浜に復帰。17年から磐田。19年7月から横浜FC。00年と13年にJリーグMVP。日本代表として06年W杯ドイツ大会、10年南アフリカ大会に出場。国際Aマッチ通算98試合24得点。178センチ、71キロ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a931b5ee2f0471cf906e5fbea91fb0f4746d6c3f

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1: 名無しさん@恐縮です 2022/10/17(月) 06:25:33.52 ID:CAP_USER9
来季のJ1昇格を決めた横浜FCの元日本代表MF中村俊輔(44)が今季限りで現役を引退することが16日、分かった。日本代表やスコットランド・プレミアリーグのセルティックなどで一時代を築き、
J1でも横浜で史上初となる2度のMVPを獲得。左足の芸術的なFKは、世界的な名手としてその名をとどろかせた。近年は右足首の故障との闘いが続き、熟慮の末、プロ26年の現役生活に終止符を打つ決断を下した。

ついにその時がやってきてしまった。記録にも記憶にも残る希代のレフティー、俊輔が今年限りで現役生活に別れを告げる。

 近年は黄金の左足を支えた軸足の右足首の故障に泣かされ、自身2度目のJ2で迎えたプロ26年目の今季は出場が激減。今年6月には千葉市内の病院で再び手術をした。患部がうむトラブルがありながら、
足の指でタオルをつかむ動作を繰り返すなど必死にリハビリを続けた。ピッチでは貢献できなかったが、その姿勢は間違いなく、チームの支えとなった。

語り尽くせないほどの栄光に満ちたキャリアだった。桐光学園(神奈川)で出場した全国高校サッカー選手権で脚光を浴び、97年に横浜M入り。22歳で史上最年少MVPに輝くなど、一気にスターへの階段を駆け上がった。
セリエAのレジーナを経て加入したセルティックでは、数々のスーパープレーで多くのタイトルを獲得。06~07年シーズンの欧州CLでマンチェスターU相手に決めたFK2発は、今も語り草となっている。まさに直接FKは俊輔の代名詞。J1でも最多24本のFK弾を誇る。

人一倍愛した日本代表でも一時代を築き、全てをささげてきた。2度出場したW杯では、思い描いたプレーは見せられなかったが、アジア杯などタイトル獲得にも貢献。03年コンフェデ杯ではフランスのGKバルテズから芸術的なFK弾を決め、05年の同杯では最強ブラジル相手に強烈なミドル弾を叩き込むなど、世界に衝撃を与えた。
数々の栄光の裏では、02年日韓W杯のメンバー落選、横浜時代の13年リーグV逸など挫折も多く経験したが、悔しさをバネに再び頂点に返り咲くその姿は誰をも魅了した。

何がそこまで俊輔を突き動かすのか――。かつて引き際について「燃え尽きたい」と話していたが、決して燃え尽きることのないサッカーへの情熱。だが、右足首の状態は数年前から既に限界を超えていた。

 そんな大好きなサッカーから、引退後も離れることはない。既にB級コーチライセンスを取得済み。将来はベンチで采配を振る姿が期待される。天才レフティーの芸術的なプレーの数々は、永遠に人々の記憶に刻まれる。

◇中村 俊輔(なかむら・しゅんすけ)1978年(昭53)6月24日生まれ、横浜市出身の44歳。97年に桐光学園から横浜M入り。02年7月にレジーナ(イタリア)移籍。05年7月に移籍したセルティック(スコットランド)では多くのタイトルを獲得。09年6月にエスパニョール(スペイン)に移籍し、10年2月に横浜復帰。
17年から磐田でプレーし、19年7月にJ2横浜FCに加入した。00年と13年にJ1でMVP。日本代表は98試合24得点。W杯は06、10年に2度出場。1メートル78、71キロ。利き足は左。
https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2022/10/17/kiji/20221016s00002180872000c.html
https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2022/10/17/jpeg/20221017s00002180027000p_view.webp

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1: 名無しさん@恐縮です 2022/10/06(木) 19:47:56.50 ID:CAP_USER9
 ロッテ・松永昂大投手(34)と田中靖洋投手(35)が6日、今季限りで現役引退することを発表した。

 松永は12年ドラフト1位で入団し、1年目から中継ぎとして活躍したが、近年は左肩痛に苦しんでいた。昨オフに育成契約となり、今年7月に再び支配下登録となったが、今季登板なしに終わった。通算359試合に登板し16勝15敗、1セーブ、135ホールド、防御率2・91。「最後の2年間、投げることができませんでしたが、今はすっきりとした気持ちです」とコメントした。

 田中靖は16年に西武から移籍し、通算209試合で10勝9敗2セーブ、22ホールド、防御率3・81。「西武に入団し、ロッテに拾ってもらった17年間、本当に人との出会いに恵まれた人生だった」と振り返った。

 また、球団は吉田裕太捕手(31)とは来季契約を結ばないことを通達した。現役続行を希望している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8a63a19a73977aca684ce8b27c6d9e998f471a41
10/6(木) スポニチアネックス

依頼
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1664748138/242

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1: 名無しさん@恐縮です 2022/10/02(日) 18:20:41.71 ID:CAP_USER9
>>10/2(日) 17:51配信
ベースボールキング

◆ 15年で365試合に登板

 西武の武隈祥太投手(32)が2日、本拠地で行われる今季最終戦・日本ハム戦前のセレモニアルピッチにサプライズで登場。今季限りでの現役引退を電撃発表した。

 旭川工高から2007年の高校生ドラフト4巡目で指名を受け、今年がプロ15年目。左のリリーフとして通算365試合に登板したが、今季はここまで一軍登板がなかった。

 左腕は球団を通じ、「今年3月の教育リーグの試合で肩を痛めてしまいました。これまでも痛みに耐えてがんばってきましたが、今回は治るという光を見つけられなかったので引退を決意しました」とユニフォームを脱ぐ決意を表明。

続きは↓
https://baseballking.jp/ns/342021

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1: 名無しさん@恐縮です 2022/09/30(金) 17:49:22.96 ID:CAP_USER9
 プロ野球・西武の十亀剣(とがめ・けん)投手(34)が30日、今季限りで現役を引退すると表明した。埼玉県所沢市の球団事務所で記者会見を開き、11年間のプロ生活を「多くのイニングを投げさせてもらって、ライオンズの勝利に少しでも貢献できてよかった」と振り返った。

 2012年から西武一筋で活躍した右腕は、今季限りでユニホームを脱ぐ理由を「今季は自分の投球スタイルができなくなり、このままでは戦力になれないと感じてしまった」と説明。先発、中継ぎ、抑えをすべて経験してきたことから「どの立場でも伝えられることはあるので、機会があればちゃんと伝えたい」と語った。

 10月2日のレギュラーシーズン最終戦でベンチ入りする予定。「もがいてあがいてやってきた結果を出したい」と意気込んだ。入団時の監督で、会見を見守った渡辺久信ゼネラルマネジャーは「FAの時(国内フリーエージェント権を行使した19年)も西武に骨をうずめる意思を示してくれて、意気を感じた」と感謝した。

 愛知県出身。愛工大名電高では3年時の05年センバツで優勝。日大を経て、JR東日本では東京都として11年都市対抗野球大会で優勝した。

 ドラフト1位で入団し、サイドスローで投げ込む速球を武器に、15年に自己最多の11勝を挙げた。今季は12試合にすべて中継ぎとして登板した。30日時点の通算成績は258試合で53勝50敗3セーブ、通算防御率は3・99。【滝沢一誠】

毎日新聞

https://news.yahoo.co.jp/articles/3a894ff604279cff8290e2890a9a0be7cdd54746

【「自分の投球スタイルができなくなった」西武・十亀剣投手が現役引退】の続きを読む

1: 名無しさん@恐縮です 2022/09/29(木) 13:34:17.66 ID:CAP_USER9
サンスポ 9/29(木) 2:30

最後の猛牛戦士が、ユニホームを脱ぐ―。ヤクルト・坂口智隆外野手(38)が今季限りでの現役引退を決意したことが28日、分かった。2003年に神戸国際大付高からドラフト1位で近鉄に入団し、オリックス時代の11年には最多安打のタイトルを獲得。16年のヤクルト加入後もレギュラーとして活躍し、通算1525安打を積み上げた。NPB(日本プロ野球機構)の現役選手では最後の近鉄出身選手。ファンに愛された男が大きな決断を下した。

不撓(ふとう)不屈の魂で、ファンを魅了してきた男がバットを置く。坂口が今季限りでの現役引退を決断した。

「ここ数年は覚悟しながら、まだ復活できると思ってやってきた。2軍暮らしが長くて若い子たちと一緒にやる中で、見られていることで体が動いた。一日一日、野球をうまくなろうと思えた。このチームで終われることが、まだ動けているうちに後輩たちに送ってもらえることが、自分の野球人生の幸せなのかなと。それが一番大きな決め手だった」

泥臭く駆け抜けた20年間のプロ野球人生にピリオドを打つ。

2003年に神戸国際大付高からドラフト1位で近鉄に入団。球団再編問題を経て、05年からオリックスに移籍すると、11年にはシーズン175安打で最多安打のタイトルを獲得した。

15年オフにみずから自由契約を申し入れ、16年にヤクルト加入。「スワローズには拾ってもらって、7年間お世話になった。ずっと恩返しをしたいと思ってプレーしてきた」。新天地でもレギュラーを奪い、主に1番打者として活躍したが、若手の台頭もあって昨季は25試合、今季は23試合の出場にとどまっていた。

晩年は故障に泣かされたが、泣き言は言わなかった。19年は左手に死球を受けて骨折。拳を握るたび、グラブをはめるたびに激痛が走った。7月7日の誕生日で38歳となった。勤続疲労で全身が痛み、毎試合前と就寝前に痛み止めは欠かせない。「『治ってくれ』と思いながら飲んでいる。おまじないみたいなもの」。献身的に支えてくれるトレーナーや治療院の先生のおかげでグラウンドに立ち続けた。

ファンや、OBの思いも背負っていた。NPBの現役では最後の近鉄出身選手。「始まりを作ってくれた球団で感謝の思いもある。背負わないといけないし、責任もある。忘れた人なんていないと思う。みんなこれからも思い続けてほしい」と素直な願いが口をついた。

今後は未定だが、「いずれは指導者になって若い子の手助けになれば。ずっと野球には携わっていきたい」と語った。

181センチ、82キロのスリムな体で全力プレーを続ける姿が多くのファンを魅了した。3球団を渡り歩いた最後の猛牛戦士がユニホームを脱ぐ。

■坂口 智隆(さかぐち・ともたか)

1984(昭和59)年7月7日生まれ、38歳。兵庫県出身。神戸国際大付高では2年春にエースとして選抜大会に出場。2003年ドラフト1巡目で近鉄入団。05年にオリックスへ移籍し、11年に最多安打(175)を獲得。08年から4年連続でゴールデングラブ賞(外野手部門)を受賞。16年からヤクルトでプレー。181センチ、82キロ。右投げ左打ち。独身。年俸5000万円。背番号42。

■大阪近鉄バファローズ

近畿日本鉄道を親会社として1949年に近鉄パールスとして設立され、パ・リーグ創設に参加。59年から近鉄バファロー、62年から近鉄バファローズに改称し、79年に西本幸雄監督の下、球団創設30年目でリーグ初優勝を飾った。チャーリー・マニエル、梨田昌孝らを擁した強力打線は「いてまえ打線」と呼ばれた。

※続きはリンク先で
https://news.yahoo.co.jp/articles/80dde6efd22c367b2b1b88f3acebb695f1ecf400

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1: 名無しさん@恐縮です 2022/09/29(木) 16:13:52.36 ID:CAP_USER9
 魂の走りで競輪ファンを魅了してきた村上義弘(48=京都・73期)が29日、現役引退を発表した。

 「14歳の頃から競輪選手を夢見て自転車に乗り始め、引退を決めた今日まで、ただ必死にペダルを踏み続けてきました。これまでの人生の記憶の大半が競輪であり、これから競輪を走らなくなる生活が、どんなものになるか分かりませんが、自分の人生を救ってくれたと感じている競輪をこれからも心の中でしっかりと応援し続けていきたい」とした。

 そして「共に戦ってきた競輪選手たち、関係者のみなさま、そして、ずっと村上義弘を応援して支え続けてくれた全国の競輪ファンのみなさまに心からの感謝を気持ちを送りたい。長い間、お世話になりました。ありがとうございました」と締めくくった。毎年、特別な思いで参戦し続けてきた地元の向日町記念(24~27日)を病気欠場。松阪F1(10~12日)の4、4、1着が最後のレースとなった。

 村上は94年に小倉でデビュー。97年オールスターでG1初出場。00年2月のふるさとダービー豊橋でG2を初優勝し、02年には岸和田・全日本選抜でG1初制覇。ここまでG1を6勝しているが、最高峰G1とされる日本選手権競輪で4勝、これは吉岡稔真氏(引退)と並ぶ最多タイの記録。
グランプリ2勝、12年京王閣では、練習中の落車による肋骨骨折を抱え、単騎の不利を克服しての優勝だった。落車やケガも多かったが、その度に不死鳥のごとく復活。逃げにこだわるレーススタイルで「先行日本一」と評された。

 近年は相次ぐ落車負傷で調子を落としていた。6月の岸和田・高松宮記念杯では落車で途中欠場、西武園オールスターでも6、7、8、7、7着と精彩を欠いていた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/387ee9e8645ca24e595a64710bfcaba40a5b6044
9/29(木) スポニチアネックス

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1: 名無しさん@恐縮です 2022/09/28(水) 18:43:52.08 ID:CAP_USER9
2022年09月28日 12:24 野球
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/09/28/kiji/20220928s00001173286000c.html
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/09/28/jpeg/20220928s00001173327000p_view.jpg

 ヤクルト・嶋基宏捕手(37)が28日、神宮球場で会見し、「今シーズン限りで現役生活を引退することを決断しましたので、ご報告させていただきます」と今季限りでの現役引退を表明した。

 「昨年の契約更改の段階で、今年1年やったらという思いで臨んだ1年だった」と説明した。

 古巣・楽天から19年オフに減額制限を超える条件提示を受け、自由契約となり20年からヤクルトでプレー。昨季は17試合の出場だったが、精神的支柱としてチームを支える献身的な姿勢は高く評価された。今季はコーチ補佐と兼任し、1軍に同行。1軍出場は1試合のみだが、常に声を張り上げチームを鼓舞した。

 「最初、仙台を離れて、家族を残して、妻には非常につらい思いをさせてしまったので、子供たちの成長もあんまり近くで見届けることができなかったので、これから少しは時間ができると思いますので、子供たちの成長をしっかりと見届けていきたいと思います」と涙を流した。

 楽天では新人だった07年から正捕手として活躍した。同期入団だった田中将とのバッテリーで、13年には球団創設初のリーグ優勝と日本一に貢献した。故・野村克也監督に薫陶を受けた頭脳的なリードだけでなく、人間性も含めて周囲から高く評価されてきた。「野村監督のような名将と呼ばれる指導者になっていきたい」と語った。

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